坊守のつぶやき 23号
西光寺で法事をお勤めする時に、皆で『正信偈』(帰命無量寿如来•••で始まるお経ですよ)を称えることがあります。その時赤い表装のお正信偈の本を手に取られたことがあると思います。一説では、この赤色は血染めの赤と云われています。
真宗大谷派第八代門主蓮如上人が、現在の福井県あわら市吉崎に赴き、文明3年(1471年)に吉崎御坊を建立されました。荒地であった吉崎は急速に発展し、北陸中からご門徒が押し寄せ、宿泊施設や坊舎が立ち並んだそうです。
【文明6年(1474年)3月28日の吉崎御坊火難の時、蓮如上人は何とか火災から逃れることができました。しかしながら、急いで出てきたせいもあり、火中の吉崎御坊に忘れ物がございました。その忘れ物とは、浄土真宗の根本聖典『教行信証』です。
全六巻の教行信証の内の一巻が火の中に置き去りです。しかもこの本は親鸞聖人御真筆のもの。貴重で大切で代わりのきかないものなのです。茫然と佇む中、一人の弟子が「取って参ります」というのです。
この方の名を本向坊了顕(ほんこうぼうりょうけん)と申します。一同の制止を振り切って火の海へ飛び込んでいった本向坊が、教行信証の巻物を発見し懐に納めてから引き返そうとしますが、引き返そうにも戻り道が塞がって引き返すことができません。
このままでは命もろとも巻物まで燃えてしまうと、意を決した本向坊は懐中より小刀を取り出し、自らの腹を十文字に捌いたのです。自ら腸(はらわた)を引きだし、その腹中に巻物を深く摂め入れられ聖教が燃えるのを身を挺して守られたのです。
焼けた御坊跡には真っ黒に煤けた本向坊の姿がありました。急ぎやってきた蓮如上人に対し、本向坊が自身の腹を指さし息絶えたそうです。本向坊39歳の往生でありました。
この本向坊の遺徳を偲び、真っ赤な表装の声明本が生まれたという一説があります。
本向坊のような篤信の行者や同行によってこんにち私共がお法(みのり)に出遇う縁が紡がれてきたのです。】
(吉崎御坊蓮如上人記念館ホームページより)
このお話は「腹籠りのお聖教」とか「血染めのお聖教」と語り伝えられています。
いつも拝読している「正信偈」の本が赤い表紙になっているのは、「いのちをかけて」守られた経典だったのです。「畳の上に直に置いてはいけない」と住職に言われたことがありました。大切に扱わなければいけないと改めて思いました。
蓮如上人は、前々号でも書きましたがあの有名な『白骨の御文』を書かれた方です。御文(おふみ)とは、お上人が親鸞聖人のお経をわかりやすく伝えるために、ひらがなまじりで書かれたお手紙なのです。
住職が、法事の最後に御文箱から恭しく御文本を取り出し、「あなかしこ あなかしこ」で終わるお聖教(しょうぎょう)です。お手紙と言っても現代人には読みづらいのですが、『正信偈』の声明本の中にも御文が数通載っております。なかなか難しいです。
さて、では心して拝読するといたしましょうか(汗)
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