今月の言葉 

いったい幾つの耳を持てば 
人々の泣き叫ぶ声が
聞こえるのか
あまりに多くの人が 
死んでしまったと気づくまで
いったい幾つの死が必要なのか
    Blowin’ in the Wind
      (風に吹かれて)
        Bob Dylan

 
剣をとる者はみな
剣で滅びる
    新約聖書
 
 
国豊かに民安し
ひょうが
兵戈(兵隊や武器)
用いることなし
    仏説無量寿経

真宗の教え

「いてもいいよ」

大谷専修学院院長 孤野秀存


「おばあさんは、なぜ早く死なないのか」
 前院長の竹中智秀先生がよく語られたある学生の思い出話です。

 小学校で先生から、「間に合う者になりなさい。世の中の役に立つ人間にならなければなりません。そのために、一生懸命勉強しなさい」と言われた。幼いながらもそうかと思ったのだろう。
 学校から帰ると家のおばあさんが縁側で日向ぼっこをしながら、こくりこっくり居眠りをしている。お父さんもお母さんも朝早くから仕事にでかけているのにおばあさんはどう見ても間に合っていない。それで、「おばあさんは、なぜ早く死なないのか」といった。
 孫からいきなりそんなことを言われて動転してしまいそうだが、、おばあさんは少しも慌てず、孫を居間の「お内仏」(仏壇)のところに連れて行って言った。
「ここにいらっしゃるのは誰じゃ」
「アミダさんだ」
「アミダさんは間に合う者も、間に合わない者も、みんないていいよとおっしゃっているじゃろう。お前も、学校の先生の言うことだけでなく、アミダさんの言うことも聞きなさい」 何かが幼い心に残ったのだろう。やがて大きくなった彼はおばあさんのことばを思い起こして私どもの学院にやってきた。
「えらばず、きらわず、見捨てず」これが阿弥陀如来の摂取不捨の心である。
『今を生きる十二篇』(真宗会館発行より)

 昨年3月、目黒区で父親に殴られた跡に亡くなった5歳の結愛ちゃんが覚えたての平仮名で両親に許しを請う文章が新聞に出ていました。
しっかりと じぶんから きょうよりかもっともっと あしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします
あそぶってあほみたいだからやめるので等と綴られていて、
できるようになる」ことを、栄養失調で12㎏しかない(5歳児の平均体重は20㎏)5歳の女の子に強要して、「できないこと」や「遊び」を罪悪と教え込んだと思われるその文面は最後まで読むことがとても辛いものでした。
 今年になっても、野田市で小4の女の子が父親の暴行で亡くなっています。
父親は「しつけのつもりで、悪いことをしたとは思っていない」という供述しています。
 児童虐待は社会の最も弱い対象に振るわれるという時代の病理を写す鏡と言えましょう。

 「しつけ」がなぜ早朝から深夜まで続けなければならないのか理解できませんが、ずい分前からこの国の中には非寛容な空気が蔓延しているように感じます。
 昨年暮れにシリアで拘束されていたフリージャーナリストが開放されると、ネット上で「自己責任論」が拡大しました。その中で「迷惑」という言葉が飛び交っていたそうです。それはいつも弱い立場におかれた人間に向けられ、常に力の強い方の不快感に使われているように思います。結果、権力の意に沿わないものは「迷惑」な存在で「自己責任」として保護の対象から外されていきます。
 「えらぶ」のです。条件がつくのです。意に沿わないものは「きらい、見捨てる」というアミダの誓願と真反対な殺伐とした言葉が飛び交っています。
 言いっぱなしの意見を、自分は絶対安全な場所から匿名で批判するという卑怯なことがまかり通る時代になってきているのです。
 
 雨宮処凛氏は近年の新自由主義の蔓延の中に「カネに余裕がなくなると心にも余裕がなくなるという身も蓋もない事実を皆で証明しつづけた20年」だと言います。その結果、「社会から寛容さは消え、非寛容が幅をきかせる中で『自己責任』という言葉はもはやこの国の国是のようになっている」と指摘しています。
 私たちは過度の競争社会の中、他者を助けることの『余裕』を失い、「寛容」をなくしてしまいました。相模原の障害者施設での連続殺傷事件にも通じていると思います。
 
 なお、雨宮氏は、昨年タイの洞窟でのサッカー少年たちの救出劇のことにふれています。25歳のコーチが、誕生日のメンバーを祝うために洞窟に入り、豪雨で出られなくなったという事件を覚えておられる方も多いとでしょう。
 ここで注目するのは、現地のタイでは閉じ込められるきっかけになったコーチを責める世論が殆ど無いということだそうです。
 近隣の農家は、洞窟から排出される大量の水のため、田植えしたばかり田んぼが浸水するなど大きな被害に遭っていたのだそうですが、そのコーチに対して「救出にいくら掛かると思っているんだ」「全額負担しろ」などという声は上がっていないといいます。
 タイでは理性の過信を諌め、人間不完全性を静かに受け止める仏様の教えがいきいきと社会に根を張って生きているのでしょう。

 私たちも、人間は愚かで、過失を犯し続ける存在であり、困難に陥っている同朋がいれば手を差し伸べ、お互い様と生きてきたのではなかったでしょうか。

 明治中期まで外国人が驚くほど子どもに優しかったのが、明治後期から「家長」の役割規範が言われるようになり、「おそろしい父」に変貌したそうです。その後、敗戦により権威を失い、高度経済成長期は家庭から不在となり、現代は男性というだけで社会的評価を得られなくなり、「立派な」父であることに過剰なアイデンティティを仮託しようとし、それが装えなくなると感情を抑え込めず暴力を振るう病理が深刻であるとの指摘があります。(『虐待と親子の文学史』平田厚著)

 「近代国家」としての明治維新150年が賛美されますが、仏教に対して徹底的に破壊・無力化が謀られた廃仏毀釈の事を忘れてはならないと思います。この間、大きな戦争が続いたことも含め、父親像変化も仏様の教えが振りむかれなくなったことと決して無関係とはいえないのではないでしょうか。
どんないのちも「えらばず・きらわず・見捨てず」との教えをいただき直すことがもとめられているのではないでしょうか。との教えをいただき直すことがもとめられているのではないでしょうか。
(中島岳志氏の東京新聞の書評を参考にしました)
 
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