報恩講法話

法話 1

 

白川良行  源隆寺住職

 源隆寺の住職を仰せつかっています白川です。報恩講も毎年お互いにお勤めをさせていただいていますが、今年はコロナウィルスで三年ぶりのお勤めをさせていただきました。
報恩講は親鸞聖人のご遺徳、御恩に報いるそうした決意をまた新たにする行事で、浄土真宗のお寺では年中行事の中で一番大切なことですけど、どうですか、ピンとこないですよね。私も親鸞聖人を宗祖とするお寺に生まれながら、親鸞聖人の御恩に報いるとはどう受け止めさせていただくことなのかと?マークをつけながら勤めているんです。
皆さんもご両親やご兄弟姉妹、知人友人を亡くされた方も多いと思いますが、その方々はどうされているんですかね。あの世にいったといいますけども。
以前、ある作家で僧侶の方がインタビューを受けている番組をたまたま見ました。「私達人間は死んだらどこにいくんですか」と女性のインタビュアーが聞いていました。どう答えるのかなと思いましたら、「私は行ったことがないからわかりません」と答えていました。私は死んだ後の世界はあると言ってほしかったのです。
 
ただ、問題は「ある」という言い方ですね。私がお衣の上からかけているのは輪袈裟といいます、ここに老眼鏡もあります、これらは目で見てあるいは手で触って確認できる実存としての「ある」ということです。
私達はどちらかというとそういうものしか信じないんですけれども、見ることができない、触ることもできない、それでも「ある」という表現をする場合があります。例えば親切心があるといいますよね、触れますか?見ることできますか?できないですね。また、愛情があるともいいますが触らせてもらえるでしょうか。親切心があるとか愛があるという、そういう意味での「ある」ということがあります。
 
お浄土へ還る
ですから亡くなられた方がどういう世界にいかれているかというと、私達浄土真宗の場合、「還浄する」「西帰された」というのです。
還(げん)も帰(き)も「かえる」。「西」と「浄」で西方浄土。亡くなられた方は西方浄土に帰られたのだと。還るのですから生まれたところもそこですね。私達はお浄土から生まれてきて、亡くなるときもお浄土に還るという言い方をして、浄土という世界に成仏するといいます。
 成仏の仏 (ブッダ)というのは「真理に目覚めた方」という意味です。悩み苦しみ悲しみ痛み、そうしたものから解放される。悩みはどうして生まれるのかという原点、原因を明らかにされ、その真理、理りを覚ったという人が仏ですから成仏(仏に成る)したということです。
父が亡くなって納棺され、その時声なき声として、「お前も必ずここに来るんだぞ」と、と呼びかけているのだとうなずいたのです。普段、人間は死んでいくのだと頭では思っていても実感するということはないです。しかし、身内や、親しい人の死というものは死がグッと迫って来ますね。それは真理ですね。人間は必ず死ぬという。
私が私として生まれてくるのは二億から三億分の一の確率らしいです。母の卵子に結合する父の精子がちょっと隣のものが結合して命が生まれたならば、私ではなかったんです。ところが死ぬのは百%です。そのことを父は棺の中から声なき声として、「お前もいつかこうなるんだ」、「死ぬんだぞ」と真理を私に伝えてくれた。仏というのは自分一人が覚りを開いて「ああ良かったよかった」というだけではだめなんですね。仕事としては縁ある方にその真理を伝えていかなければならない。それで初めて仏に成るということになるのです。
となると、亡くなられた方を成仏させるのは誰でしょうか?それは私達生きている者なのです。私達がそのことに気がついてはじめて亡くなられた方が仏として私達の心の中に存在するということかもしれません。
 
 亡くなってみてから父親が私に伝えるというのでしょうか、「お前の人間性というのはこういうものだぞ」と、それは、恨みつらみではなく事実として伝えられたのです。「ああ、そうか父が生きているときには、何もうなずくことなく反発ばかりしていた。そういう人間が私だな」と、気がつかさせてくれたのです。亡くなってから方向転換になってくるということがありました。
 
 母親九十三歳で誤嚥性肺炎で入院しました。その時はなんとか助かってほしい、もう少し長く生きていてほしい思っていました。その後なんとか回復して退院しました。 
 家に戻ると夜中、短い時は三十分おきにトイレに立つので、転びでもしたら大変だと思い、母のベッドの横の床に寝てトイレに連れて行ったりしました。
 しかし、そんなことが長く続いてくると、あれだけ助かって欲しいと思っていたのが、あの時死んでくれていたら俺は楽になるのにと思ったんです。人間ってそうですね。
 
「さるべき業縁のもよおせば、
 いかなるふるまいもすべし」 (『歎異抄』第一三章)
 
 また、認知機能の低下もあり、母にきつい言葉を吐いたりするようになりました。後から、「そういう病気なのだから、あんな事言わなければよかったな」と思っても、次の日また状況によって同じことを言ってしまう。辛く当たってしまうのです。
 知り合いの方から「お母さんどうですか」と聞かれ、「夜中三十分おきにトイレに連れて行ったりして辛いですけど、なんとかやってます」と言うと「よくお世話されますね」と感心される。すると途端に「そうでしょう!」と増長してしまうんです。いわゆる慢心が起こるのです。どうだッ!、俺っていい息子だろうと思ってしまうわけです。
 自分を立てて人と比べ、自分を優位に立てる心持ちになってしまう。
それは良いことをしていても良いことではないですね。
 私はそれを根本的罪業性と呼んでいます。どんなに良いことをしていても自分の中に慢心が起こる、人間なんですね。

相田みつをさんが「にんげんだもの」と言いました。それですべて解決するようなことは「けしからん」という評価をする方もいます。私が「にんげんだもの」でうなずいたのは、人間は良いことをしても悪いことをしてもどっちみち罪業なんだということ。そのことを相田さんも言っておられるのだと思います。
それはなぜわかるかというと、母や父の姿や、その付き合い方からわかるでしょう。「如来大悲」という言葉がありますね、如来さまは私たちを大悲をもって、悲しみをもって見ていてくださっているという。私の存在が罪業性を抱えたまま生きていかなければならないという、そのことに如来さんは深く悲しみ、それも包んでくださる悲しみですね。許してくれるというと語弊がありますが、私達を「そうかそうか」といって包んでくださるような存在だと思うのです。 (次号へ続く)