永代経の法話

 
「永代経」のご法話はロシアによるウクライナ侵攻も視野に入れた展開でした。まず大前提として一方的に軍事侵攻しているロシアに理はありません。核兵器使用を恫喝に使うことは絶対に許すことはできません。人間の思い(自我分別)は自己中心で、他と比較し、どこまでも迷いの構造をもった差別世界です。人種を問わず、どの時代でも人間の「思い通りになったら幸せ」という根深い無明性を知らされます。
 早く争いをやめてくれと願うばかりですが、長期化により利を得る システム が存在との報道に触れ、度し難い思いをいだきます。なぜ戦争は繰り返されるのか、人間の、理性で解決できるとの「思い」の根の深さをあらためて感じます。京都の全寮制の大谷専修学院で学んだ時の寮監であった中川皓三郎先生 (元帯広大谷大学長)の「敵と争う」ことについてのお話しから引用します。
 
「私自身、今まで条件闘争ばかりしていたなぁということを思います。「俺の条件は悪い」と言ってばかりいたように思います。他の人との比較の中で、俺の条件は悪いという。そして条件を整え環境を整備して、自分が自分として生きることを始めようとする。しかし、どこまでも、自分の都合です。
 だから、人との関係においても、都合と都合ですから、最後はお互い自分の都合をいちばんにするということです。最後は、みな自分を守りますから、どこまでいっても一つにならないのです。(中略)
私たちが、我が身をよしと思って、我が身をたのみ、そこから自分と他人というものを二つに分ける。そういう自分と他人との分離を前提にして生きる限り、どれだけ親しい人も、自分の外にあるわけですから、最後は、自分のなそうとすることを妨げるものとしてしか、見えてこないのです。だから、自分の思いを中心にして生きる限りは、私の思いとあなたの思いは、一つにはならないのです。みんなにそれぞれの思いがあるのだから、それぞれが自分の思いを実現しようとすれば、最後は、すべて敵だということにならざるを得ない。利用するか、敵になるかどちらかです。

 だから、自分と他人を二つに分けて、そこで自分の思いを実現しようとすれば、必ず、力が必要とされるのです。力があるということは、自分の思いに他人を従わせることができるということでしょう。力がなければ、他の人に従わなければならない。だから、力だと言うわけです。その力を象徴しているのが戦車ということです。ところが、ここのところが本当に大切なのですが、どれほど私たちが強大な力を持っても、自分の外に他人があるという事を前提にしている限り、敵は無くならない。私たちが、自分と他人を二つに分けて、そこで自分と言っている限り、自分の外には、必ず他の人がいるのですから、そういう自分というものがなくならない限り敵は無くならないのです。敵を作っているのは、この私なのですから。
 だから、私たちはあらゆるものを、自分中心に二つに分ける、自力の心が翻され、捨てられということがない限り、劣等感と孤独から解放されるということはないわけです。どうしても、人の目に怯え、死の不安の中で、暗くちっぽけな生を生きざるを得ないということになります。
 信國淳先生 (大谷専修学院元院長)が、「善悪を選ばぬ心の中では、善悪の矛盾的対立もその依り処を失って、自然と対立を解消せざるを得ないはずだからである。どんな悪いことでも平気で無関心に受け摂めていく心であるなら、その心をどんな悪も傷つけることができず、かえって刃を捨ててそこに帰入するほかないはずだからである」と言われることは、廣瀬先生が、「念仏で戦車を止めることが出来る」と言っておられることの具体的内容です。
(『ただ念仏せよ』中川皓三郎 東本願寺出版)より
敵を作っているのはこの私である」、との気づき。善・悪、自と他をどこまでも自己中心に分ける私たちの在りようを、お念仏の教えにより知らされることの大切な意味と、だからこそ「時機純熟の教え」であるとの本多雅人先生の指摘をあらためて受け止めました。
お彼岸中ウクライナ支援募金箱を設置し、皆さまからのお志は左記のようにお届けしました。昨年の豪雨災害のご支援も有難うございました。