彼 岸
「彼岸」とは、梵語(サンスクリット語)のParamita(パーラミター)を「波羅蜜多(はらみった)」と音写して、「到彼岸(とうひがん)」(かの岸に到る)と漢訳された仏教語です。
この世である此岸に対して悟りの世界である涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界世界をいいます。しかし岸という字が当てられているように、涅槃の岸辺、すなわち此岸と彼岸の境界でもあります。
春分の日や、秋分の日を中心に前後7日間がお彼岸の期間ですが、その間お寺へ出向いてお墓参りをする風習は、インドや中国にはなく、我が国へ仏教が伝えられて間もない頃から広く取り入れられた仏教行事です。日本人の国民生活にとけ込んだ行事となったのは、四季の移り変わりを敏感に感じ取る日本人独特の感性が育んだ風習といえましょう。
太陽が真東から昇り、真西へ沈むお彼岸のお中日は、夕日が西方浄土へ通じる道しるべとなって、お浄土に住む有縁の亡き方を思い起こさせ、生かされて生きていることへの感謝の念を生じさせます。その大悲に通じる美しい感性を大切にすべきだと思っています。
わかきとき 仏法は たしなめ
蓮如上人
「まだ、お寺に通うような歳ではないので」、と言う人がいます。裏を返せば、寺は年老いてから行くところ、仏教は老人が聞くものというお考えでしょうか。
しかし、人間は老若に関わらず、誰しも人生の日々に迷い悩みながら生きています。その根底にあるのは自らの立脚地、こころの帰り場所の喪失です。別の表現で言えば、確かな価値観、人生の物差しを見失うということです。その喪失、見失いの原因は、生老病死という無常を受けとめられない私たち人間の無明の闇にこそあると示されたのが釈尊でした。
それは決して老人だけの問題ではありません。老若共に抱える人生の一大事なのでしょう。その生死(しょうじ)を超える道を示すのが仏教です。
その仏(ぶつ)(覚者(かくしゃ)=道理に目覚めた人)の法こそ、彼岸として示される阿弥陀の浄土であります。お彼岸の月、浄土からの呼びかけに耳を傾ける機会をお作りいただくことが大切なことだと思います。
『同朋新聞』9月号にもありますが、「彼岸」というのは、私たちの生きる迷いの世界(此岸(しがん))に対して、彼(か)の岸、覚(さと)りの世界、涅槃(ねはん)を表します。親鸞聖人のおことばでいえば、「生死(しょうじ)の苦海(くかい)」に浮き沈みするその「難度海(なんどかい)を度(ど)する」という、念仏をいただく私たちは彼岸から問われるものとして生きていくという大切なことが教えられています。
『観無量寿経』に、浄土の世界に目を開きたいという求めに応じて、仏(ぶつ)は「心を専らにし、念を一処(いっしょ)に繫(か)けて、西方(さいほう)を想うべし…日没を見よ」とまず「日想感(にっそうかん)」を説かれます。善導大師(ぜんどうだいし)は釈されて、陽が真東から昇り真西に沈む春秋を選ばれました。この善導大師の選びと西方の日没について廣瀬杲先生は「もし西方と指し示されなかったならば、浄土を知る心はついに安定することはないだろう。無限に浄土を穢土(えど)の中に探して夢の上に夢を見ながら一生を終わるだろうと、こういう問題をそこにあきらかにしていく」と仏の教えのこころを示してくださいました。彼岸の行事の意味もまた、このことを私たちが明らかにすることであると受けとめていきたいものです。
氷が溶けると何になる?」という問いかけに雪国のある子が、よろこびにあふれた笑顔で「春になる!」とこたえたそうです。でも、それは理科の時間だったので、その答えは認められませんでした。
理知の世界ではそうなのでしょうが、たぶんその子はご両親や、もしかしたらおじいちゃんやおばあちゃんが、そうやって喜んで恵みを受け取るという、生活の中からの言葉を実感として聞き取ってきたのでしょう。雪解けの大地から芽吹いてくる草花をいっしょに慈しみながら。
私にはそういう感覚はありません。ないというよりも見えなくなっているといった方が正しいかもしれません。理知的な能力もなく、みずみずしい感覚もなくして生きてしまっている、お恥ずかしいことです。
彼岸はインドの古語サンスクリット語のPa(-)ramita(-)(パーラミター)を「波羅蜜多」(はらみった)と音写し、意味から「到彼岸」(とうひがん)と漢訳された仏教用語です。
この世である此岸(しがん)に対してさとりの世界である涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界をいいます。
みなさんは「お彼岸」をどのように過ごされていますか?
浄土真宗に限らず多くのお寺やお墓に大勢の方々がお参りをされます。こういった仏事は平安時代から始められ、私たちも祖父母や両親からそのすがたを伝えられてきました。
此岸に生きる私たちが、迷いの生死(しょうじ)の世界から、阿弥陀如来の浄土の世界の岸に到ることを願う仏事とされています。
このお彼岸の思想は、悩みや苦しみのない浄土に生まれたいと願わずにはおれない、私たち人間のこころから生まれてきたと言えるのではないでしょうか。
現代ではお彼岸はお墓参りをし、先祖供養をすることだとされてしまっていますが、親鸞聖人の教えを聞かせていただくご縁をいただいている私たちにとって、お彼岸をお迎えする大切さを、あらためて考えていきたいものです。経済的にたいへんな時代に生きている今、慌ただしい生活を強いられる中で、亡き人をとおして自らを省みて、仏法に耳を傾けることが願われているのではないでしょうか。
お葬式やご法事で、こういった事を耳にします。それは、「故人もさぞ喜んでいることと思います。」その言葉の前には、お酒が好きだったから、とか、賑やかなことが好きだったからとかが付く場合もあって、お通夜・お葬儀は亡き人からのメッセージを聞き取る大切な時間であり、私たちの「思い」がいかに儚いものであるのかと受けとめさせていく千載一遇の場であるのですが、賑やかに送ってあげれば喜ぶはずだと、そのことを肯定するときに使う方も多いようです。お葬儀に参列するのも、お墓に参るのも、亡くなられた方々に対する私たち遺されたものの愛情があるからこそではありますが、その思いも単に私たちの一方的なもので終わるなら、残念なことにならないかと思います。
亡き人を案ずる私が、
この世である此岸に対して悟りの世界である涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界世界をいいます。しかし岸という字が当てられているように、涅槃の岸辺、すなわち此岸と彼岸の境界でもあります。
春分の日や、秋分の日を中心に前後7日間がお彼岸の期間ですが、その間お寺へ出向いてお墓参りをする風習は、インドや中国にはなく、我が国へ仏教が伝えられて間もない頃から広く取り入れられた仏教行事です。日本人の国民生活にとけ込んだ行事となったのは、四季の移り変わりを敏感に感じ取る日本人独特の感性が育んだ風習といえましょう。
太陽が真東から昇り、真西へ沈むお彼岸のお中日は、夕日が西方浄土へ通じる道しるべとなって、お浄土に住む有縁の亡き方を思い起こさせ、生かされて生きていることへの感謝の念を生じさせます。その大悲に通じる美しい感性を大切にすべきだと思っています。
わかきとき 仏法は たしなめ
蓮如上人
「まだ、お寺に通うような歳ではないので」、と言う人がいます。裏を返せば、寺は年老いてから行くところ、仏教は老人が聞くものというお考えでしょうか。
しかし、人間は老若に関わらず、誰しも人生の日々に迷い悩みながら生きています。その根底にあるのは自らの立脚地、こころの帰り場所の喪失です。別の表現で言えば、確かな価値観、人生の物差しを見失うということです。その喪失、見失いの原因は、生老病死という無常を受けとめられない私たち人間の無明の闇にこそあると示されたのが釈尊でした。
それは決して老人だけの問題ではありません。老若共に抱える人生の一大事なのでしょう。その生死(しょうじ)を超える道を示すのが仏教です。
その仏(ぶつ)(覚者(かくしゃ)=道理に目覚めた人)の法こそ、彼岸として示される阿弥陀の浄土であります。お彼岸の月、浄土からの呼びかけに耳を傾ける機会をお作りいただくことが大切なことだと思います。
『同朋新聞』9月号にもありますが、「彼岸」というのは、私たちの生きる迷いの世界(此岸(しがん))に対して、彼(か)の岸、覚(さと)りの世界、涅槃(ねはん)を表します。親鸞聖人のおことばでいえば、「生死(しょうじ)の苦海(くかい)」に浮き沈みするその「難度海(なんどかい)を度(ど)する」という、念仏をいただく私たちは彼岸から問われるものとして生きていくという大切なことが教えられています。
『観無量寿経』に、浄土の世界に目を開きたいという求めに応じて、仏(ぶつ)は「心を専らにし、念を一処(いっしょ)に繫(か)けて、西方(さいほう)を想うべし…日没を見よ」とまず「日想感(にっそうかん)」を説かれます。善導大師(ぜんどうだいし)は釈されて、陽が真東から昇り真西に沈む春秋を選ばれました。この善導大師の選びと西方の日没について廣瀬杲先生は「もし西方と指し示されなかったならば、浄土を知る心はついに安定することはないだろう。無限に浄土を穢土(えど)の中に探して夢の上に夢を見ながら一生を終わるだろうと、こういう問題をそこにあきらかにしていく」と仏の教えのこころを示してくださいました。彼岸の行事の意味もまた、このことを私たちが明らかにすることであると受けとめていきたいものです。
氷が溶けると何になる?」という問いかけに雪国のある子が、よろこびにあふれた笑顔で「春になる!」とこたえたそうです。でも、それは理科の時間だったので、その答えは認められませんでした。
理知の世界ではそうなのでしょうが、たぶんその子はご両親や、もしかしたらおじいちゃんやおばあちゃんが、そうやって喜んで恵みを受け取るという、生活の中からの言葉を実感として聞き取ってきたのでしょう。雪解けの大地から芽吹いてくる草花をいっしょに慈しみながら。
私にはそういう感覚はありません。ないというよりも見えなくなっているといった方が正しいかもしれません。理知的な能力もなく、みずみずしい感覚もなくして生きてしまっている、お恥ずかしいことです。
彼岸はインドの古語サンスクリット語のPa(-)ramita(-)(パーラミター)を「波羅蜜多」(はらみった)と音写し、意味から「到彼岸」(とうひがん)と漢訳された仏教用語です。
この世である此岸(しがん)に対してさとりの世界である涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界をいいます。
みなさんは「お彼岸」をどのように過ごされていますか?
浄土真宗に限らず多くのお寺やお墓に大勢の方々がお参りをされます。こういった仏事は平安時代から始められ、私たちも祖父母や両親からそのすがたを伝えられてきました。
此岸に生きる私たちが、迷いの生死(しょうじ)の世界から、阿弥陀如来の浄土の世界の岸に到ることを願う仏事とされています。
このお彼岸の思想は、悩みや苦しみのない浄土に生まれたいと願わずにはおれない、私たち人間のこころから生まれてきたと言えるのではないでしょうか。
現代ではお彼岸はお墓参りをし、先祖供養をすることだとされてしまっていますが、親鸞聖人の教えを聞かせていただくご縁をいただいている私たちにとって、お彼岸をお迎えする大切さを、あらためて考えていきたいものです。経済的にたいへんな時代に生きている今、慌ただしい生活を強いられる中で、亡き人をとおして自らを省みて、仏法に耳を傾けることが願われているのではないでしょうか。
お葬式やご法事で、こういった事を耳にします。それは、「故人もさぞ喜んでいることと思います。」その言葉の前には、お酒が好きだったから、とか、賑やかなことが好きだったからとかが付く場合もあって、お通夜・お葬儀は亡き人からのメッセージを聞き取る大切な時間であり、私たちの「思い」がいかに儚いものであるのかと受けとめさせていく千載一遇の場であるのですが、賑やかに送ってあげれば喜ぶはずだと、そのことを肯定するときに使う方も多いようです。お葬儀に参列するのも、お墓に参るのも、亡くなられた方々に対する私たち遺されたものの愛情があるからこそではありますが、その思いも単に私たちの一方的なもので終わるなら、残念なことにならないかと思います。
亡き人を案ずる私が、
亡き人から案じられている
私たちは自分の思いを中心にした眼(まなこ)しかもっていないのです。それが此岸、こちらの岸。彼岸とは、人間の思いに濁されない世界、浄土ということです。
悲しみや苦しみを縁として、一方的にしか亡き人を、そして人生を見てこなかった私たちの姿が、彼岸から照らし出され、人生を見る眼が転じられるのでしょう。彼岸は単にお墓参りの行事ではなく、教えのことばなのです。
私は亡き人から何を聞き取れるのだろうか。彼岸の声として。
私たちは自分の思いを中心にした眼(まなこ)しかもっていないのです。それが此岸、こちらの岸。彼岸とは、人間の思いに濁されない世界、浄土ということです。
悲しみや苦しみを縁として、一方的にしか亡き人を、そして人生を見てこなかった私たちの姿が、彼岸から照らし出され、人生を見る眼が転じられるのでしょう。彼岸は単にお墓参りの行事ではなく、教えのことばなのです。
私は亡き人から何を聞き取れるのだろうか。彼岸の声として。