坊守のつぶやき 10号

 
 「大通り公園で迷子になったのは五歳の時だった。」という小説の出だしを読んで、そう言えば私も五歳の時、迷子になったなと思い出した。
 あの日は、京都駅近くの《丸物》と言うデパート(今は、ヨドバシになっている)に、兄の友達と一緒に遊んでいた時のことだった。デパートの階段をグルグル上がっていく途中で、私は置いてけぼりになった。
 兄達を探してフロアをウロウロしだした。まだその時は、外に出れば帰る自信があったので自分で階段を探すのだが、いかんせん見つからない。 
 うろうろグルグル、うろうろグルグル•••私はどんどん不安になっていき、恐ろしい恐怖となって、孤独感が襲って来た。
ここで泣いてしまった訳です。後は、お巡りさんが来て•••。
 でも、外に出て分かったんです。東本願寺が見えましたから、―私は帰れるーと。
 
 大人になった今でも迷ってばかり。
「私が正しい」「こうあるべき」「好きだ嫌いだ」と、自分中心の考えから抜けられません。皆そうです。私は正しいと思わないと生きて行けませんから。これが《迷い》なのです。
 でもそこで「私は何故あの人の事が苦手なのだろう?」と、心の深淵を覗いてみると、本当の気持ちに気付かされる事があります。自分を知るということは苦痛です。辛い事もありますが、これが阿弥陀仏の本願からの呼びかけなのかも、と思ってます。

 迷っても迷っても、南無阿弥陀仏と呟き称えることで、ーあぁ〜また迷ってるなぁ〜―と気付きます。

こんな私でも救ってくださる、これが阿弥陀さまの本願、帰って行ける場所なのかな 。

 そうそう五歳のあの日の私は、あの後お巡りさんを背後に従えて、家への道を迷わずに帰って行きました。
−五歳にもなって迷子って、恥ずかしいなぁ〜―と思いつつ
 
 
 
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