坊守のつぶやき 28号

 
 前号の〈坊守のつぶやき〉の最後に『鬼滅の刃』(きめつのやいば)の主人公竈門炭治郎(かまどたんじろう)のことを少し書いたのですが•••
ご存知ない方にとっては、なんのこっちゃ⁉︎でしたよね。
 このアニメは大正時代の日本が舞台で、主人公の竈門炭治郎は家族を鬼に殺された少年で、鬼にされた妹禰󠄀豆子(ねずこ)を人間に戻し、家族のかたきを討つため鬼を倒す組織に入り、鬼のドンや鬼たちと闘うというストーリーです。 
 深夜なにげなくテレビをつけたらアニメをやっていて、その画面が•••
倒されて死んでいく鬼が、人間だった昔、なぜ鬼になってしまったかを回想するのですが、生きていく選択として、鬼になるしかなかった話がされてて、それがとても悲しく、死につつある鬼も救いが必要としている存在、として描かれていたのです。
 
 鬼になりたくなくても、鬼になってしまう。ふと、こんな話を思い出しました。
 ある時、親鸞さんが唯円さんに語りかけます。
「唯円房は、私の言うことばを信じるか。」
師を尊敬していた唯円さんは答えます。
「はい仰せの通りにいたします。」
「今言ったこと間違いないな。」
「謹んで仰せの通りいたします。」
「では、人を千人殺してみよ。そうすれば往生は間違いない。」
困ってしまった唯円さんは必死に答えます。
「私の器量では一人を殺すことすらできません。ましてや千人など。」
そこで親鸞さんは言われるのです。
「これで分かったであろう。
どんなことでも、自分の思い通りにできると言うなら、往生のために千人殺して来いと言われれば、迷いなく殺せるはずだ。 
しかし、殺すことのできる事情や条件が整わないから、一人の人も殺さないだけのことである。
人は、自分が善い心を持っているから、人を殺さない訳ではない。人はまた、殺す理由など一つもなくとも、百人はおろか、千人をも殺す事があるかもしれないのだ。」〈歎異抄 第十三条〉
私は人など殺しませんーなどと考えるのは自分の感情で勝手に思っているだけで、ただの傲慢なのかもしれません。
 縁あれば人を殺したり、また殺されることがある、ということです。
自分一人の力で生きて来た、と思っていても、様々な縁が重なって今の私があるのです。
『さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし』
(人は誰でも、然るべき縁がはたらけば、どんな行いもするものなのです。)
“縁あれば鬼にもなる”のだと、アニメを見ていてお聖人のことばを思い出したのです。
 でもやっぱり、病気になるご縁はいらないと思ってしまうし、嬉しい楽しいご縁ばっかりだといいなぁ~と、思ってしまう心はあります。嬉しいことも悲しいことも「ご縁があって」なのですよ。と、自分に言い聞かせてはいるが•••••
 
『鬼滅の刃』の最後も、やっぱり勧善懲悪であって欲しいものだと、ついつい思ってしまう私なのでした!(_;)
 
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