坊守のつぶやき 27号
「う~~ん」
「はてさて困った。書きたいことが無い」
「そう言えば最近出かけるのも億劫だし …
気持ちも若干後ろ向きだし …」
聞法して気持ちが前向きにならないか、楽になれないものか、と思うのですが実際にはなれはしない。仏法を聞いても様々な問題は解決されないままだし、いよいよ何ともならない自分を思い知らされるし。
〈自我を出さないで、小さなことに腹を立てず、欲深い生き方をせずに、心豊かに生きましょう〉なんて誰もが願うけれど、でも絶対に私には無理だわ、そんな生き方!
煩悩に溢れ、お腹の中にドロドロしたものを溜め込んで、見ないようにしている虚仮の姿の私。
聞かせて貰ったお話ですが、
金沢の暁烏敏先生のお寺では、毎年夏季講座が開かれ、全国から先生のお話を聞くために多くの人が参集されたそうです。
講習会の日程が進んで、いよいよ明日は閉会式を迎えるという前の晩、ある人が先生の前に出て、
「初めてこの講習会に参加させてもらいまして、明日は九州に帰るのですが、このままでは到底帰れません」と言います。
ボクを通して教えにたずねて! 赤本くんより
「どうして帰れんのか」
「もう少しましな人間になれると思っていたのですが、到底なれませんでした」
すると暁烏先生は「それでよいのじゃ」と言われる。「どうしてでしょうか」と聞くと
「鉛が銅や銀になるか。いよいよ鉛であったと気づかせてもらう。それでよいのじゃ」と言われました。
聞法ってこういうことなの?わからないままでいいの?でも、何ともならない身であるってことには気づいたような。だから自分で何とかしようなんて、高慢なのかも!
病気になったり、家族と死別したり、お商売の不振や倒産など、それら自体は悲惨なことだけど、「待てよ、生きていればこういうことは誰にでもある。辛いことも何か意味があるのかも」と思える心は、聞法で養われているのかも。
「あんな事がなかったら」「あいつのせいでこんな目に」とか愚痴を言うだけだと、あっという間に虚しい人生で終わってしまうのです。
浄土真宗の教えはいつも思うが、厳しい!
いくらお経を称えても、ご法話を聞きに行っても不安からは逃れられない。自身で受け止めて気づく事が大事か!
厳しいわよね、答えが出ないから。
そんな私は最近《鬼滅の刃》の〈竈門炭治郎〉のように、心身ともに強く、他人に優しく、他人を責めない、竈門炭治郎の菩薩のような心を持つ人間になりたいと思ってしまう、どうしようもない凡夫でやっぱり生きています(汗)
♫ありがとう、悲しみよ♪
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