今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠
 
今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀

今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠
 
今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀

光明土・海一味

 
2017.10
 今年も多くの人との別れがありました。二月に入って総代をつとめてくださっている関谷清吉さんのご母堂フキさんの訃報がありました。一九年前、本願寺第八世蓮如上人の五百回御遠忌法要がお勤まりになり、「バラバラでいっしょ」というテーマのもと盛大な法要が勤められました。お念仏の教えを、文字も読めなかった人々にも明らかにしてくださったのが蓮如上人だと、そして今、私にまで伝わったのだと感動され是非御遠忌法要にお参りしたいと念願されて、東京二組団体参拝に一家全員で参加されました。
 参拝を本当に喜んでいただいた姿をお通夜のお勤めの時思い出していました。
 あと一つ忘れられないのは、お彼岸の前になると「皆さんがお墓を掃除されるのに使ってください」といって、一針ずつ丁寧に縫われた雑巾を何度もご寄付くださったことです。人知れず自らをもって周りをきれいにするというお人柄が偲ばれます。その志を娘さんが受け継がれ、「母のようにはできないけれど」といって届けて下さいます。

 二月二十三日は母の祥月命日で十三回忌に当たりますが、同じ日に、父が住職として赴任してきてから支えてくださったお一人である中島丑松様が九二歳で還浄されました。私が一二歳で得度して僧侶になってから毎年、彼岸、お盆と五〇年間もお参りをさせていただいた事も有難い御縁としか言いようがありません。本当にお世話になりました。

 また、同じ日には、従兄弟である森達哉君も満五三歳という若さで五年前の癌が再発し、浄土に還って往かれました。母親である叔母は八五歳で息子の喪主となるとは思いもよらなかったことでしょう。しかし、末期癌の息子に「お念仏申せ。阿弥陀様にお任せよ」と呼びかけ続け、その言葉に深くうなずいて亡くなっていかれたことを「間に合ってよかった!」と言って喜ばれた声を聞いて、念仏者として拝まずにはおれませんでした。

 生まれてくるということは、死んでいくということ。出会いは別れを含んでいます。本当に生まれてきたことを「仏さまのおかげ」と手を合わせられるだろうか。私たちの日常は大体「困ったときの神(仏)頼み」都合よく助けてもらおうという根性だから、仏さまはとても遠い。どのような境遇であっても、代わりのきかない私自身として“いのち”を受けとめて生きよと呼びかけられている。


 

2015.1

今の状況は、余計なことはお前らは知らなくてよろしいという戦前の「お上」に似て来ているので心配です」など、戦争を体験された方も体験されていない多く門徒の方からお声をいただきました。
 あれよという間に勝手な解釈がまかり通り、異常なテンションで国会答弁をする「最高責任者」を中心にして、尊い犠牲と深い反省から生み出され、これまで積み上げてきた私たちの世界が強制的に変えさせられようとしているのですから。
 実は、私たちの教団も戦争中、「聖戦」として戦争を賛美し、多くの門徒さんを戦場に送り出したのです。そして戦死した門徒に院号法名を出して栄誉としたのでした。私の叔父も陸軍軍曹として昭和17年、22歳のときビルマで戦死し、「殉国院」と院号のついた法名です。「殺してはならない、殺さしめてはならない」という教えに背き、人を殺してこいと送り出したのです。
 また「実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みをもってせば、ついに怨みのやむことがない。耐え忍ぶことによって怨みはやむ。これは永遠の真理である。」との釈尊のお言葉も忘れたのです。




 昨年の報恩講(11月3日)には、元海兵隊員で、縁あって真宗門徒となった故アレン・ネルソンさんが語る戦争と平和を「9条を抱きしめてー憲法9条は核兵器より強いのです」というビデオにまとめられています。それを見て皆さんと、本当に「国や国民を守る」ということは、どういうことか、仏教徒としてどう生きるかなどについてご一緒に考える機会といたしました。
 ところで、2014年は生誕60年を迎え、ゴジラに注目が集まっています。
それに関連して東京新聞に「ゴジラと集団的自衛権」というコラム(正助氏)(怪獣氏)が続けて目につきました。
 私が初めてゴジラシリーズを見たのは、7歳のとき、第三作目の『ゴジラ対キングコング』(1962)でした。その後で、第一作『ゴジラ』を見たのですが、ゴジラがまだ人類の味方的な位置づけになっていない初期の映画は、子供心に得体の知れない怖さをとても強く感じたのを覚えています。 
 時代は水爆実験が繰り返され、そのキノコ雲の映像や被爆した漁船のニュースを白黒テレビで何度も見ました。「もはや戦後ではない」という経済白書が出ていてオリンピックがアジアで初めて開かれると浮かれはじめていたとはいえ、大人達も映画の中の逃げまどう群衆の描写に、初上映の10年前(空襲)の恐怖がありありとよみがえるような状況だったのではないでしょうか。
 1954年に誕生した初代ゴジラは、水爆実験によって太古の眠りから覚めた生物という設定で、劇中で何度も語られる「水爆」というキーワードによって、ゴジラとキノコ雲の映像とが重なり、今の生活と地続きになるような恐怖をリアルに感じたのでしょう。 
 核兵器や原発といった科学技術の過剰な進歩に対する警鐘。これは第1作から絶えずゴジラが抱えてきたテーマでした。コラム(怪獣氏)はそのことを次のように記しています。
「あらためて第一作を見て思ったのは、この作品が軍事的な抑止力を批判していることである。偶然、ゴジラを倒すパワ—を持つオキシジェン・デストロイヤーを開発してしまった芹沢博士は、この発明が世に出ると、原爆、水爆のようなパワーゲームが始まるとして使用を拒否する。
 テレビで東京の惨状を目にしたことで、自分の発明をゴジラ用の兵器にした芹沢は、最後に悲劇的な決断を下すのだが、ここにあるのは強大な敵に軍事力で立ち向かうという発想は、必ず人類を不幸にするというメッセージではないか。」
 監督したのはイギリス人で、3・11をふまえ、本家にリスペクト(尊敬)して作ったと言っているようですが、その設定が本家とはまるで違うようで、ゴジラは核が生んだものではなく、むしろ核が生んだのはムートー(古代生物、地震を起こし原発が崩壊するシーンから始まる)の方で、ゴジラはそれを倒す役回りになっています。
 その問題点をもう一つのコラム(正助氏)から全文引用します。
「テレビ画面には瓦礫の山と化した東京と負傷者の映像が流れ、原爆犠牲者を弔う少女達の合唱が被さる。そこへ怪獣の襲来を告げる臨時ニュースが入る。
 逃げ惑う人のなかから、「せっかく長崎で命拾いしたのに」という呟きが聞こえる。
 今からちょうど六十年前に公開された『ゴジラ』の第一作にある一場面である。舞台は八月。日本が戦争に負けた月だ。
 だから今回のハリウッド版『ゴジラ』が八月の日本で公開されているのは、理にかなったことである。だが、実際に見て驚いた。悪い冗談としか思えない。凶悪な怪獣がアメリカ西海岸を襲う。ゴジラはアメリカ艦隊と並んで現場に駆けつけ、壮絶な戦いの末に勝利を収める。そしてアメリカ人達の拍手を受けながら海に去っていく。
 これではつい先月、安倍政権が行なった集団的自衛権の行使容認をアメリカ側が歓迎し、祝福する映画ではないか。
 本来の日本の『ゴジラ』は、南方で死んだ兵士を悼み、核兵器の脅威を訴えるメッセージを持っていた。
 日本の映画人よ、一刻も早く本道に戻り、3・11以降の日本人の魂を鎮めてくれる『ゴジラ』を撮りあげてほしい。それは日本のファンのみならず、全世界が日本に期待している映画でもあるからだ。」
 「怪獣氏」はこの正助氏の文を受け、
「日本が軍事による抑止力を認める方向へ舵を切りつつある今、その愚かさを描いた初代ゴジラの問題意識を重く受けとめる必要がある。」と指摘しています。
 思想統制があり、ファシズム体制を国民が支持して戦争になるという一方、民主主義の下でなぜ戦争が起きるのかを示しているのが米国の例が重要だと識者はいいます。建国以来、国際紛争解決として戦争やクーデター支援を行なってきました。中南米の独裁国家の支援、ベトナム、湾岸戦争、イラク侵攻などです。自分たちの価値観が正しく、その価値観を邪悪な敵が侵略するとき武力で排除していくという構造になっていることを思い出しても良いのではないでしょうか。
 ゴジラのことは、映画館に行って確かめたいと思います。
私たちの教団では、集団的自衛権行使容認に対する反対声明と宗務総長コメント出していますので、ここに掲げておきます。


安倍晋三内閣による集団的自衛権行使容認に対する反対声明
 安倍晋三内閣総理大臣は、このたび、十分な国民的議論もないまま、集団的自衛権行使容認を閣議決定されました。これは、防衛の名のもとに、戦争の可能性を開くものであり、このような改憲に等しい重大事が、恣意的な解釈変更によって決定されたことに、強く反対の意を表明します。 
 私たちは、「日本国憲法」を、悲惨な戦争を背景に生まれた、非戦に向けた日本国民の誓いであるとともに、国際社会に恒久平和を呼びかける願いの象徴であると受けとめています。集団的自衛権行使容認は、戦争放棄を誓い、願い続けてきた日本国の姿勢を大きく変更するものであり、決して容認することはできません。
 安倍内閣総理大臣におかれては、仏陀(覚者)の金言、「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」(『法句経』)という言葉に耳をかたむけ、熟慮いただき、今回の閣議決定を即時撤回されますよう強く求めます。


宗務総長コメント
 今回、安倍晋三内閣は、集団的自衛権行使容認を閣議決定しました。この重大問題を抱える「現代」に生きる私たちは、今こそ仏法僧の三宝に帰依する「仏教徒」として、この問題から目をそらすことなく、正見に依って的確に受けとめ、言動する使命と責任があるのではないかと思います。 
 仏教では、「国豊民安 兵戈無用」という教言に象徴されるとおり、仏の教えが生きてはたらくところにこそ、ほんとうに豊かで、戦争の無い世界が開かれると教えられます。それは、『仏説無量寿経』において教示される如来の本願に、どこまでも照らし出され、呼びかけられ続ける「われら」の問題であり、この私たちに、真に「われら」といえる世界が如何に成り立つのかという課題であります。
 親鸞聖人が顕らかにされた浄土真宗の教えは、自己関心に執着して自らの愚かさに気づくことのできない私たちに、如来の本願に基づいて、人と生まれた意義を教え、丁寧なる人間関係を開いてくださるものです。自らの正義に酔いしれ人間の関係と存在そのものを破壊する戦争を正義の名の下に容認する。このような自分を善とし他を悪とする愚かな在り方に、目覚めなければならないと教えてくださるものこそ、南無阿弥陀仏であります。
 こんにちの日本政府の判断はまさしく国民の危機であり、私たち一人ひとりが、自らの課題として受けとめるべきものです。この問題の中にこそ、私たちは、自他一如を説く仏の教えを聞き開かなければなりません。あらためて、一人ひとりが、今、浄土から、どのように呼びかけられているのか。何を教えられ、うながされているのかを、それぞれの生活の現場で語り合い、共に「同朋社会の顕現」に尽くしてまいりたく存じます。


2014年7月1日
   真宗大谷派 宗務総長 里雄康意