フィレンツェ在住の中村さん。

当寺門徒の中村勇さんのご子息で、イタリア、フィレンツェ在住の中村貴寛さんが、久しぶりに帰国し、目黒で展示会を開くということで案内をいただきました。
 彼から見て祖父にあたる故中村市郎氏は、『響流』を始めた頃、よく読んでいただいて、励まして下さったことが続けてこられた一つのご縁でした。
 そのお孫さんがイタリアで銀細工の修行をしていると聞かされたのは市郎さんの七回忌の時だったでしょうか。
Mondo di sbalzo(浮彫細工の世界)
“イタリア、ルネサンスの街フィレンツェのとある銀食器工房。
そこで学んだ「打ち出し」、
      「鍛金」の技術を使った作品をお楽しみください。”
と書かれたご案内をいただき、花冷えのする4月11日、品川区上大崎の静かなギャラリーに出掛けました。

案内状にあったアンモナイト?を形どった大きな花器に圧倒されました。
 作品はテーブルセッティング用のものや、生活に直結したものが多く、イタリアでは今でも豊かな家族関係が維持されているのだなと感じられます。家族の中で代々使い続けられていくことで、モノが単なるモノでなく家族の記憶や歴史に溶け込んでいくという、数字に表せない豊かさを感じられました。すべて一点物で、注文によって作られるといいます。
 最近、若い日本人がイタリアやイギリスで靴職人や革職人として修行し、任され老舗の品質を支えていることや、ロンドンのサビルローで名門テーラーのカッターとして活躍しているということを聞きますが、直接使い手の顔が見えるものづくり、自分の技術が役に立つという関係性が開かれるという喜びが現代日本では見えにくくなっていることの裏返しに見えてきます。グローバルな社会とは本当に人間を幸せにするのか、考えさせられます。
 私は、高価なものは手がでないので、身近においておけるものは何かないかなと見回しましたところ、動物のレリーフが幾つかあるなかでカメレオンに目が止まりました。
 ところで、蓮如上人のたくさんある「御文」(おふみ)のうち、お葬式が済み、荼毘に付されたあと還骨勤行で必ず拝読される「白骨の御文」があり、身近な大切な方が亡くなった事を通して教えとして大切にしてきたお手紙です。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」
と始まります。蓮如上人は人生というものは浮生なる相であると教えて下さいます。根がない浮き草のように定めのない人生だということでしょう。環境に任せていく生き方です。嬉しことがあれば喜んで、悲しいことに出会ったら悲しんで、私の喜怒哀楽、思い、考えのすべてを環境に任せていく。環境を超えた深い喜びというものがないと言われるのです。生きているそのこと自体が浮き草のようなものであり、万歳を知らない。永遠のいのちを見失ってしまっていると。
ある人からカメレオンを七色の紙の上を歩かせたところ、見事に体色を変えて渡り終えたけれど、あえなく体力を使い果たし死んでしまったということを聞いたことがあります。 私はカメレオンではないのか?周りに合わせるような生き方をし、自分を見失い、頼りにならないものを頼りとして生きているのだと、まず人生の今ある姿をはっきりお示しくださっているのが冒頭の「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」のお言葉の意味ですね。カメレオンのレリーフを見ながら自分を見つめなおすこととするために、身近に飾っています。