住職のつぶやき

 新聞によると、東日本大震災に関連して自殺したと国が認定した人は福島県で年々増加し、宮城、岩手で減少傾向が見られるのと対照的だという。一方、原発事故の避難中に病気や自殺などで亡くなった福島県の事例を東京新聞が調査した「原発関連死」は、2014年3月までに少なくとも1048人という。大半は「病死」とみられているそうだが、関連死は2013年3月から259人増え、犠牲が拡大し続けているとある。 震災直後に「原発さえなければ」と小屋の壁に書き残して亡くなった酪農家のことを思い起こす方も多いのではないだろうか。8月26日に福島地裁で原発事故による避難と自殺の関係が初めて認定され、東電に賠償命令が出された。 日常の何げない生活から突然切り離されたとき、人は生きていくことに非常に苦痛を感じることは誰でも想像できるのではないだろうか。広島の土砂災害でも70人以上の方が一瞬の間にいのちを亡くされたが、身近な家族が突然引き裂かれ、姿も目の前から消えてしまうことに耐えられるという人はいないのではないだろうか。人は、食事が与えられ、寝泊まりでき、金が与えられるだけでは生きていけないということを表しているのではないか。「最後は金目」ではない。

 突然の別離はそのことがなかなか受け入れることが困難だと言われる。一方で、最近の傾向として、「お葬式の持つ悲しみや寂しさのイメージを拭い去るような明るく、アットホームな雰囲気のお葬式にしたい」とかで、「パーティーのような」集まりが目につくようになっている。「自分らしさ」という枕言葉は、今や必ずと言っていいほど頭に付くことになった。自分の葬式はああして欲しい、こうして欲しいと、それをすすめる業者あると言う。一番大事な身近な人との別れも、「悲しい」とも、「寂しい」とも思えなくなっているのが長寿社会ということなのだろうか。肥大化した自我意識ここに極まれり、か。 そもそも「葬儀式」という意味が伝わらなくなっている。葬儀は自分らしさを表現する場なのだろうか? 自分のああもしたい、こうもしたいということが一切間に合わない“いのち”の厳粛な事実に「目覚める」ご縁をいただくのが、仏教が「葬儀式」行なう意義であると受け止めている。 経済はもちろん大事だが、「一銭もかけない死に方」と週刊誌が特集を組む内容を見ると、教え(宗教)の意味が社会のあり方と乖離しているのではと思わされた。

 そのような時、『納棺夫日記』の作者青木新門氏の文章が目に止まった。氏は2011年の親鸞聖人御遠忌法要で、西光寺が所属する東京2組の団体参拝でお話しいただき、その後何度かお会いするご縁をいただいた。氏は本分を忘れた住職方に厳しい言葉をかけられるが、直葬や家族葬が横行することの背景を次のように書かれている。

「死んだら何もないとする考えを仏教では「無見」というのだが、無見とは、一切の存在は「無」になると主張し執着する見解で、すべてのものは虚無であり、断絶するものであり、人の一生もこの世限りのものであるとする見解である。この見解の対極にあるのが「有見」で、一切の存在が「有」であると主張し執着する見解で、すべての存在は永遠に常住し不滅であり、人は死んでもアートマン(我)という固定した実体が永遠に続いて不滅であるという見解である。(略)我が国では『大霊界』という映画まで作った丹波哲郎などは、有見の代表格と言えよう。また、易や占いなどを信じる人にも有見の人は多い。 大乗仏教の理論を大成させたナーガルジュナ(龍樹菩薩)は「悉能摧破有無見」(正信偈)と、有見も無見も邪見だから破棄すべきと言っている。 無見の人は、戦後の社会をリードしてきた科学者や作家など、いわゆる知識人に多く見られ、その影響を受けて育った人たちも死んだら無だと思っている人が多い。」とおさえられている。 そのような人々は死後ということを信じていないので、生のみに価値を置いて、死を隠蔽して生きていて「ピンピンころり」といきたいと振舞っている。が、実際に肉親の死を前にした時は対応する術を持たないので、無なる死に直面し、どのように死を受容するかが問題となっている。来世の有無や来世の罪と罰の苦悩ではなく、無に帰する死をいかに受け止めるかに苦慮しているという。だから『千の風』や『おくりびと』が心を癒す作品として歓迎されるという社会現象が起こっているという。 唯物思想がもたらした「死んだら何もない」という人間中心の死の捉え方が普通になった物質文明社会にあっては、宗教を否定し、お別れの会、偲ぶ会を生み、宗教学者も葬式無用論を展開する事になるのは必然だといわれている。
「唯物論は古代からあった思想で、アテネの哲学者エピクロス(紀元前341〜270)などは、魂の不滅を否定し、来世の存在を認めない哲学者であった。しかし、エピクロスの思想はやがて、快楽主義と非難されるようになっていく。なぜなら死後の世界を無としたとき、人は死んだら何も無くなるのなら生きているうちが花だと、欲望と快楽に走るからである。エピクロスの唯物論は、現世を謳歌する快楽主義をもたらしたのであった。今日の我が国も、まさにこの世を謳歌する快楽社会になっている。」と青木氏は見据える。 そして、実際の仏教葬の場では、唯物思想に取り込まれて、「死んだら無」と思っている会葬者を前にして、浄土往生や成仏といったことを目的とする作法で構成された各宗の儀式が行われ、形骸化が進行していることの問題点を僧侶への戒めとして、あらためて最重要事はなにかと問いなおしてほしいといわれている。
 国の王子であった、ゴータマ・シッダルタ(お釈迦様)の出家の動機は「苦からの解放」であった。生・老・病・死を苦であると悟り、生・老・病・死すべてを安心して生きることの出来る道を説かれたのが仏教である。どれだけ豊かになって飢えることが無くなっても生きる苦しみは変わらない。どんなに介護制度が備わっても、老いの哀しみに変わりはない。どんなに医療が進歩しても病の不安は変わらない。どれだけ長寿を得ても必ず死を迎えるのである。2500年前も今も、人間の苦しみは変わらないのである。 普段、問わないで済ませていられる内は、なんとか気を紛らしたり、気晴らししたりして生きていけるのだろうが、厳粛なるいのちの事実から問われた時、逃れられない時というのは、最愛の方と別れて行かなくてはならない時ではないだろうか。仏教が死を縁とするとはこのことであろう。悲しみを通して四苦の根源を明らかにされた「法」(道理)に出会っていく歩みを、共にしていくことが住職の努めであるとあらためて頷いたことである。 釈尊は最後に、「自らを灯火とし、他を灯火とせず、法を拠り所とし、他を拠り所とする事なかれ」と。法(道理)を拠り所とせよとの遺訓を残されたのであった。