親鸞聖人に人生を学ぶ講座終了を受けて

親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け事業として、全宗門を挙げて行われた「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」を西光寺は東京2組A班として行いました。 
 2009年の6月から東京2組A班で行ってきた「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」が2010年4月21日(水)最終回を迎えました。残念ながら9ヶ寺のうち6ヶ寺のみの参加で、門徒さんの参加も30名弱でしたが、西光寺は毎回会場が持ち回りで変わっても常に10名前後の参加をいただきました。参加されたみなさんの熱意や努力はもちろんのこと、送り出してくださった多くのお力の賜と感謝いたします。仏教では縁ということを非常に大事にしますが、特にものを決めるときの決定的な要素になるのを、強力な条件という意味で「増上縁」といい、「有力増上縁」積極的なサポーターだけではなく、何の役にもたたないけど邪魔立てをしないという「無力増上縁」が私の背景に働いて今ここに座ることができたのです。何事も縁次第とお釈迦様が覚られたことには、こういうことまで入っているのです。あらゆることがあなたをここに運ばせる縁として働いた結果ここにこうしてあるのです。
 出かけようという心掛け、努力それは自力の限りを尽くされた素晴らしいことですが、それだけでは事は成り立たないと教えるのが無力増上縁ということです。妨げるものが何一つたまたま起きなかった。いくら心掛けて、予定をしていても家族や自分に、交通機関にトラブルがなかったから自分の努力が形となることの道理を表した言葉です。
 この講座を開催した意味は、来年の七百五十回御遠忌をきっかけとして、厳しい現代社会でいったい、何をよりどころに生きていくことが大切であるかをご一緒に考えていく場所をお寺で開いていきたいということにあります。
 墓地入り口近くの掲示板やトイレに掲示していた呼びかけ文
ひとり旅に出る 安心できるのは
帰る家があるから 人生は生涯をかけた一人旅 
 どんなに旅が楽しくても、帰る家がなければその旅は不安で虚しいものになっていくでしょう。帰る場所があれば、旅そのものに満足できなくても、気持ち新たに生活していくことができます。「帰る場所」とは「真のよりどころ」といえるのではないでしょうか。
私の人生を尽くしていくことのできる拠り所とは何でしょう。あなたは何をよりどころにして生きていますか。
を読んでいただいたことと思いますが、私は真のよりどころを何に求めているかという問いかけです。案外儚いものや結局は頼りにならないもの、なくなってしまうものを頼りとしていないでしょうか。浄土真宗と言うことは今は一つの組織である宗派名としか認識されていませんが、親鸞聖人は教団を作ったことはありません。親鸞のいう「浄土真宗」とは浄土を拠り所とした真実の教えに出遇ったということです。
「あう」にもたくさんの意味があり、使われる漢字も違います。
遇。思いがけなくあう。有り難くもあう。
遭。災難にであう。好ましくないものにあう。
会。予定を立ててあう。
合。一致する。一つになる。
逢。親しい人とめぐりあう。
値。知遇。お互いに出向いてあう。とあります。「遇う」ということは予定して出会えるものではないけれど、こちらが宗(むね・よりどころ)をはっきりしていきたいと尋ね、歩むということがあってはじめて、有り難くも、思いがけず出遇うということを表しているのでしょう。
「本当の出あいに 別れはない」 
 親鸞聖人は比叡山での20年間限りを尽くして道を求めたけれど本当の拠り所にならなかったこと気づかれて「やまを出で」て六角堂での百日参籠し法然上人を訪れる決意をし、そこでまた「降るにも照るにも、いかなる大事にも」(恵信尼消息)ひたむきに法然上人の教えを百日間聞いていったのでした。それは「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』)と「生死出ずべきみち」を語る明快な教えでした。法然上人との出遇いはそのまま如来の本願との出遇いでした。実質六年間の出会いではありましたが、生涯その恩徳を讃嘆されたのでした。