すぐに役立つことは
すぐに役立たなくなる
「学ぶ」とはどういうことかを問い、教壇に立ち続けた国語教師のインタビュー記事だった。かつて無名の私立校だった神戸市の灘中・高校を全国屈指の進学校に押し上げた伝説の国語教師、橋本武さん( 1912 ― 2013)の残した言葉だという。
橋本さんは自分が教壇に立つようになって、自分自身は中学校で先生から何を得たかと問うてみた。何も残っていない、授業すら浮かんでこない。愕然としたという。生涯にわたって生徒の心に残る授業をしなければと誓った。
明治期の神田の下町を舞台に子どもの目で見た子どもの世界が描かれている中勘助の自伝的小説『銀の匙』を中学の三年間かけて読み込むという独自の授業を一九五〇年から始めた。例えば駄菓子の話で「青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆のなかから甘い風が出る」という表現が出てくる。その授業のため当時に近い菓子を探しまわり生徒の人数分集め、食べさせた。
作者の幼年期を追体験し、作品と一体化する。自分が小説を書いているような感覚に浸り、一言一句を読み解く力が深まる。一週間で一ページも進まないことも度々あったが、「こんな授業でいいのか」と不安を口にする生徒はいなかった。教え子には遠藤周作氏や東大学長や、最高裁事務総長など多くいるが、えらくした意識はない、彼らがしっかり歩んでいってくれたと語る。

学ぶとは記憶一点張りの詰め込みではやっていけない。判断力、観察力、推理力などの結集が大事であり、その土台となるのが国語力である。「生きる力の基本」であり、その他の科目でも深く踏み込んでテーマの真髄に近づいていこうとすることが「学ぶ力の背骨」であり、国語力であると語っている。
振り返って私たちは今どうだろうか。スマホでググればすぐ答えが出てくる時代だが、その答えを覚えて「わかったつもり」になっているだけではないか。高学歴のタレントなどが競い合うクイズ番組もある。しかし問題で出された、その歴史上の人物や出来事が、どのような意味があるのか、背景などは全く問われない。クイズ番組なのだから野暮は言うなと突っ込まれそうだが。
国の方針では、すぐに役に立つための研究(=稼げる学問)には金を出すが、金にならない研究は予算を削るとのこと。ノーベル賞受賞学者が基礎研究が先細りの現状を憂い、その充実を訴えてきていることはどう受け止められているのだろうか。
英語ができない私が言うのもおこがましいが、幼いうちから英語が話せるようにと小学校から英語の授業が始まっている。何かで読んだ記憶があるが、日本の優秀な学生が留学先で、外国語だけで授業が受けられるよう語学は上達したが、ある時、他国の学生から日本の文化的背景や、芸術、宗教、文学などについて問われたときに答えることができなかったと。日常会話が達者でも自分たちを育んできた文化の深い背景を語ることができないことに気付かされたと。語るべき内容がなければ言葉も生まれてこないのではないだろうか。
「学問」とは問いを学ぶことだと教えていただいた。安易に答えを聞いて「わかったつもり」になっていないか、振り返る必要があるのではないか。その「答え」とやらが本当に正当なものか。更に絶対的な正解というものがあるのかどうか問うていくことが求められるのではないだろうか。
(東京新聞2月1日を参考にしました)