今月の言葉 

いったい幾つの耳を持てば 
人々の泣き叫ぶ声が
聞こえるのか
あまりに多くの人が 
死んでしまったと気づくまで
いったい幾つの死が必要なのか
    Blowin’ in the Wind
      (風に吹かれて)
        Bob Dylan

 
剣をとる者はみな
剣で滅びる
    新約聖書
 
 
国豊かに民安し
ひょうが
兵戈(兵隊や武器)
用いることなし
    仏説無量寿経

盂蘭盆会
(うらぼんえ)

 
今年も親しいご門徒の人々とのお別れがありました。
 新盆を迎えるご門徒様のご自宅で、また新盆の合同法要「遺族の集い」を7月11日にお勤めいたします(別途案内済)。
 また、すべてのご門徒様の合同法要は7月13日午前11時より、消毒・換気・時間短縮でお勤めいたします。お参りできる方はどうぞ本堂にお入りください。
 
 お他宗では『お施餓鬼』(施餓鬼会)と習合した形で修せられています。餓鬼に施すとはどういうことでしょうか。釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言い旧暦の7月1日に地獄の釜の蓋があいて亡者が帰ってくるとか、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという道教の考え方が混合して仏事に影響しているようです。
 一般的には簡単にいえば、ご先祖を供養する日、として伝えられてきた行事であるといえましょう。
 
 ところで、供養ということを考えてみたいと思います。
以前、友人のお寺の掲示板で次のような言葉にふれました。
亡き人を なぐさめ 
しずめると 思っていた私が
亡き人に 養われ 願われていた

 供養って、亡くなった人のためにするんじゃないの?と思われた方も多いのではないでしょうか。テレビのニュースでも、「朝から大勢の家族が先祖の魂を鎮めるためお墓参りをする姿が見られます」と、決まり文句のようなアナウンスがどの局でも流れます。
「しずめる」といわれていることは鎮魂ということです。浄土真宗では行いませんが、たとえば葬儀の際、亡くなった人が出ると塩をまいたり、出棺のとき棺をグルグルと回して霊柩車に乗せるということも、以前都内でも行われていました。今でも続いているのは火葬場との行きと帰りの道をわざわざ変えていることです。これらが鎮魂儀礼と言われていることの一部です。そして、「安らかにお眠りください」という弔辞が読まれたりもします。その鎮魂の裏には、縁ある人の死に際して悲しみながらも、自分の死、不幸、悪いことが自分には来ないようにという人間の自己中心的な意識が隠れているように思います。
 単に塩でなくて「清めの塩」というわけですから、尊い人の死を「穢れ」とする見方でしょう。穢れていなければわざわざ「清める」必要はないのですから。
 棺を回す、行き帰りの道を変えるというのも方向感覚を狂わせて、「死者は戻って来ないで」という考え方から来ていると言われます。つまり、口では「仏さん」といっても亡くなった人は穢れた存在だと、無意識に思い込まされているのではないでしょうか
 
 「なぐさめる」とは「慰霊」ということを指していると思います。そもそも死者の霊魂の存在を認めることのない仏教に、死者の霊を慰める儀式はありません。
 しかし、人間は純粋ではありませんから、生前の関係のなかでの思いが、亡くなった人を「なぐさめる」ということを求めます。後ろめたさがあったり、亡き人に対して申し訳ないという思いがあったり、ことによっては「恨みを持って死んでいったのではないだろうか」と思われたりもします。そこから、呪い、祟りを恐れて、霊を慰め、冥福を祈るという慰霊ということがなされてきました。
有名なところでは菅原道真を大宰府に左遷?してから京に天災が続き道真の祟りだとして、鎮魂儀礼が行われたとのことです。
(冥途(土)とは死者が行く暗黒の世界。冥福とは地獄での幸せということになります。
私たち真宗門徒はお浄土に還る(還浄・げんじょう)と教えられてきました。浄土に生まれて往く(往生浄土)ともいわれます)
 そして、「しずめる」「なぐさめる」ことが亡き人を供養することだと受け取られていますが、はたしてどうでしょうか。
 本来、供養とは、「仏・法・僧の三宝、及び父母・師長に食物・衣類等を供給すること」をいいます。「仏・法・僧の三宝」は私たちに真の生まれた意義と生きる喜びを見出させてくださる人生の宝です。「父母」は私の大切な心身を養育してくださった親です。そして「師長」は教えを授けてくださった恩師です。私たちは供養ということで、私たちの心身を護持養育してくださった大切な宝や人々を敬い、尊ぶという事を大切にしてきました。
 
 そこで、供養について考える一つの道しるべとなる言葉を教えていただきました。
供養とは、亡き人に心配かけない行き方を見つけることなのだ。そのために仏法を聞くのだ。
心配かけない生き方とは一人ひとりが自立していくことなのだ。    
            藤元正樹

 亡き人を供養するということは、亡き人が残してくださった無言の問いかけを受け、真の自己に目覚めることではないでしょうか。亡くなった人は単に亡くなったのではなく、人生の最後の相(すがた)を白骨の相になって見せてくださっています。
 そこには「あなた自身いつ何時亡くなるかわからないけれど、いつ“いのち”終えても生まれてきて本当に良かったといえる生き方を見つけていますか」と無言で問いかけてくださっているのです。
 「亡き人に養われ願われていた」という言葉は、仏法を聴聞するなかで、亡き人と今を生きる私と共通の根本問題に目覚めたところに聞こえてくる言葉でないでしょうか。私達が求めているのは、なんでも思い通りにいく世界ではありません。どういう人生であれ、賜った人生を人のせいにしたり、何かが祟っているからといわないで、ひとり立ちしていける道をこそ、求めているのです。
 本当の供養とは「聞法供養」であるといわれる所以です。