修正会
「偽装偽証偽善偽名に偽造あり
偽偽、偽偽、偽偽と軋む日常
(朝日歌壇)
「偽」という字は白川静さんによれば、変化して他のものになる意味だそうですが、「人」の「為(な)す」ことは偽りが多いと読むほうが頷きやすいのではないでしょうか。以前東京教区で作成した法語ポスターに「人の為と書いたら、偽りという字になりました」というのがあり、本来的に私たちの自我は自分中心でしかものを見ることはできない。人間存在というのは、何処までいっても自分が可愛いというところから抜けきれない存在なのだと仏様の眼からはっきりと教えられているのでしょう。そしてそのことに頷くことがなければ「人のため」「世のため」といっても結局「自分のため」という落とし穴にはまることになるぞと、いうことをきちんと自覚しておきなさい。と示されたのだと了解してきました。「はからい」ということを親鸞聖人は言われます。「はからい」とは自力の分別(ふんべつ)のことであります。自力の分別(ふんべつ)によってつくる善ならば道徳の世界の話です。しかし、いのちそのものは、わが「はからい」とは無関係に因縁他力のままに現れるのです。
ある先生のお言葉に
「人生はやり直すことはできないが、見直すことはできる」
とありました。どうでしょう「ああ、またやってしまった!」という連続ではないでしょうか。言葉は生き物ですから、会話のやりとりのなかでは感情が高ぶれば、つい勢いもあって相手を傷つけることも吐いてしまうこともあります。余計なことや取り返しのつかない言葉も出てしまうことがあります。出たものはもう引っ込めることはできませんから、言った方も「なんであんなことをいってしまったんだろう」と深く落ち込むことになってしまいませんか?まあ、言われた方が大変なのはわかりますが、あまりにも頑固だったり、自分も言い過ぎたのかなあという事がなく、私は一方的な被害者だという立場をとり続ければ言葉はエスカレートするばかりではないでしょうか。えっ!「私はいつも相手を傷つけないように気を使っているからそんなことはない」。
本当にそうでしょうか?「私はしっかりやっている」「私は気をつけている」と、もちろん心がけることは大切なことで、「どうだっていい、どうせ」といっているのではありません。
亡くなられた坂東性純先生は「南無阿弥陀仏とは、まことに申し訳ありません、ありがとうということです」とおっしゃられたことがありました。
私は間違える存在なのだということを自覚している人と、「私に限ってぜったいありえない」と思っている人の違いは何でしょう。「私は間違えることもある」という人は「ああ、またやってしまった。申し訳ない」と軌道修正できます。
一方は「そんなはずはない。何かの間違いだ。相手がそう受け取った。」とかならず自らを省みず、他の何かのせいにしてしまいがちです。
親鸞聖人は「ああ、またやってしまった。あいすまんことです」と私がこの世を生きるということは罪を犯さないで生きることはできない。「迷惑のかけどうしの私であった」とうなずく人を「悪人」といい、「私は迷惑をかけないようにいつも心がけている」人間的努力で何事もなしていくという人を「善人」といって「悪人」こそが救われるのだと教えてくださいます。
善人とは『歎異抄(たんにしょう)』第三章でいただけば、「自力(じりき)作善(さぜん)」のひとでしょう。自力作善のひととは、善悪を知った知識で、善を為し悪を止められると思っているひと、善悪のけじめを自分でつけられると思っているひとのことでありましょう。
ひとは、いくら善を求めても、悪を避けようとしても、いのちそのものは「さるべき業縁のもよおし」のままに歩まされていくのです。悪人とはまさしく、そのことをこの身に知らされ、時の目覚めをもったひとなのでしょう。その厳粛ないのちの現行存在にたち帰る時をどこで感じ取っていくかが、私たちにおける「一大事」の問題ではないでしょうか。
明治以降、近代、とくに先の大戦のあと、自我の確立ということが、キリスト教社会で成立した思考方法をよしとし、自我を固めることにまい進してきたといってもいいのではないでしょうか。
その時代社会が生み出す非真宗的な現実の諸相も、自我という善悪を人間の意志で決定できるという、自力作善の立場でとらえていけば、限りなく自分というものが見えなくなるのではないでしょうか。
金子大栄先生は「現代は善人ばかりである。他を平気でこき下ろせるのは、善人意識でなければできない芸当だ。悪人意識とは、善を行じたくても行じえない、我が身の底に巣喰う悪への悲嘆である」と仰せられました。
ひとを教え、他者を批判するところに立って、この身への悲嘆を失ったところには、いかに正論であってもそれは真宗ではありません。他の先生はそのありようを「今日の日本には、先生は大勢いるが、生徒は一人もいない」と現代の人間の生き様を見事に言いあらわしているように思います。
「キレル」若者(最近はキレル老人という本も出ています)や、モンスター・ペアレントの出現や「自分以外すべてバカ」という本のタイトルにもあるような自尊心の巨大化した現代人はそのことを具体的に証明しているかのようです。
昨年、植木等さんが亡くなり、映画「三丁目の夕日」など、昭和という時代を懐かしく語る傾向が強くなっています。そのことはひとまずおいておいて、植木さんはたいへんまじめな方で、役柄上の性格とで悩んだという話がありました。特に一世を風靡した「スーダラ節」の詩についてたいへん悩まれたと『夢を食い続けた男―おやじ徹誠一代記』(朝日文庫)にあります。
しかし、浄土真宗の僧侶であった父から「わかっちゃいるけどやめられない」というのは親鸞聖人の仏法に通ずる意味があると読み取られ、歌うことをすすめられたおかげでレコーディングされたというエピソードが記されてあります。
これは開き直りの歌ではないでしょう。たんなる開き直りであるならばこれだけ多くの人の心には響かないでしょう。ああ、ほんとうにそうだなあ、と痛みを持って頷いたからこそヒットしたのだと思います。
間違いをおこしたと気づければ、立ち返って軌道修正できるのです。間違ったことを間違ったと気づくことができなければどうなるか、宇宙船が地球に戻る軌道を外れれば戻ることはできませんし、軌道がわずかでもずれれば大気圏への突入角度が狭くなり、大気との摩擦で異常高温になり燃え尽きてしまうでしょう。
真宗の門徒はそのたびごとに、教えにふれ、ああ、まちがっていたな、また知らしていただいたなあと立ち返り、味あわさせていただいてきたのです。年の初めにあらためて私のあり方を見つめることが「修正会」の意味なのです。
近頃は、「ご先祖」にという意味合いが強いのでしょうか、新年のお参りにこられてもお墓参りだけで済ませてしまうご門徒様が増えてきたようで、とても残念です。ご先祖も私に先立って、阿弥陀の本願にふれて確かに阿弥陀の浄土に還り、そして縁あるものを度するためにこの「私」に「阿弥陀の御名(みな)を念ぜよ」とはたらきかけてくださる諸仏のお一人であるのです。
ご先祖は決して「この私を拝め」とは言わないはずです。ましてそのような者に祟りを及ぼすなど、あるわけがありません。そんなことより、「私を縁として大いなる世界に眼を開け」と呼びかけ続けてくださっているのではありませんか。
お寺参りは単にお墓参りではありません。仏様にお参りされるよう、ご先祖がおはたらきかけをしてくださっているからお墓が大事なのです。阿弥陀様にお参りをせず、お墓だけというのは、その諸仏となられたご先祖の願いを無にするものといえましょう。
年の初めに、西光寺のご本堂でお勤めをいたし私の軌道がズレていないか「修正」いたしましょう。かんたんなおせちを用意してお待ちしています。
西光寺修正会
元旦 午前十一時より
(朝日歌壇)
「偽」という字は白川静さんによれば、変化して他のものになる意味だそうですが、「人」の「為(な)す」ことは偽りが多いと読むほうが頷きやすいのではないでしょうか。以前東京教区で作成した法語ポスターに「人の為と書いたら、偽りという字になりました」というのがあり、本来的に私たちの自我は自分中心でしかものを見ることはできない。人間存在というのは、何処までいっても自分が可愛いというところから抜けきれない存在なのだと仏様の眼からはっきりと教えられているのでしょう。そしてそのことに頷くことがなければ「人のため」「世のため」といっても結局「自分のため」という落とし穴にはまることになるぞと、いうことをきちんと自覚しておきなさい。と示されたのだと了解してきました。「はからい」ということを親鸞聖人は言われます。「はからい」とは自力の分別(ふんべつ)のことであります。自力の分別(ふんべつ)によってつくる善ならば道徳の世界の話です。しかし、いのちそのものは、わが「はからい」とは無関係に因縁他力のままに現れるのです。
ある先生のお言葉に
「人生はやり直すことはできないが、見直すことはできる」
とありました。どうでしょう「ああ、またやってしまった!」という連続ではないでしょうか。言葉は生き物ですから、会話のやりとりのなかでは感情が高ぶれば、つい勢いもあって相手を傷つけることも吐いてしまうこともあります。余計なことや取り返しのつかない言葉も出てしまうことがあります。出たものはもう引っ込めることはできませんから、言った方も「なんであんなことをいってしまったんだろう」と深く落ち込むことになってしまいませんか?まあ、言われた方が大変なのはわかりますが、あまりにも頑固だったり、自分も言い過ぎたのかなあという事がなく、私は一方的な被害者だという立場をとり続ければ言葉はエスカレートするばかりではないでしょうか。えっ!「私はいつも相手を傷つけないように気を使っているからそんなことはない」。
本当にそうでしょうか?「私はしっかりやっている」「私は気をつけている」と、もちろん心がけることは大切なことで、「どうだっていい、どうせ」といっているのではありません。
亡くなられた坂東性純先生は「南無阿弥陀仏とは、まことに申し訳ありません、ありがとうということです」とおっしゃられたことがありました。
私は間違える存在なのだということを自覚している人と、「私に限ってぜったいありえない」と思っている人の違いは何でしょう。「私は間違えることもある」という人は「ああ、またやってしまった。申し訳ない」と軌道修正できます。
一方は「そんなはずはない。何かの間違いだ。相手がそう受け取った。」とかならず自らを省みず、他の何かのせいにしてしまいがちです。
親鸞聖人は「ああ、またやってしまった。あいすまんことです」と私がこの世を生きるということは罪を犯さないで生きることはできない。「迷惑のかけどうしの私であった」とうなずく人を「悪人」といい、「私は迷惑をかけないようにいつも心がけている」人間的努力で何事もなしていくという人を「善人」といって「悪人」こそが救われるのだと教えてくださいます。
善人とは『歎異抄(たんにしょう)』第三章でいただけば、「自力(じりき)作善(さぜん)」のひとでしょう。自力作善のひととは、善悪を知った知識で、善を為し悪を止められると思っているひと、善悪のけじめを自分でつけられると思っているひとのことでありましょう。
ひとは、いくら善を求めても、悪を避けようとしても、いのちそのものは「さるべき業縁のもよおし」のままに歩まされていくのです。悪人とはまさしく、そのことをこの身に知らされ、時の目覚めをもったひとなのでしょう。その厳粛ないのちの現行存在にたち帰る時をどこで感じ取っていくかが、私たちにおける「一大事」の問題ではないでしょうか。
明治以降、近代、とくに先の大戦のあと、自我の確立ということが、キリスト教社会で成立した思考方法をよしとし、自我を固めることにまい進してきたといってもいいのではないでしょうか。
その時代社会が生み出す非真宗的な現実の諸相も、自我という善悪を人間の意志で決定できるという、自力作善の立場でとらえていけば、限りなく自分というものが見えなくなるのではないでしょうか。
金子大栄先生は「現代は善人ばかりである。他を平気でこき下ろせるのは、善人意識でなければできない芸当だ。悪人意識とは、善を行じたくても行じえない、我が身の底に巣喰う悪への悲嘆である」と仰せられました。
ひとを教え、他者を批判するところに立って、この身への悲嘆を失ったところには、いかに正論であってもそれは真宗ではありません。他の先生はそのありようを「今日の日本には、先生は大勢いるが、生徒は一人もいない」と現代の人間の生き様を見事に言いあらわしているように思います。
「キレル」若者(最近はキレル老人という本も出ています)や、モンスター・ペアレントの出現や「自分以外すべてバカ」という本のタイトルにもあるような自尊心の巨大化した現代人はそのことを具体的に証明しているかのようです。
昨年、植木等さんが亡くなり、映画「三丁目の夕日」など、昭和という時代を懐かしく語る傾向が強くなっています。そのことはひとまずおいておいて、植木さんはたいへんまじめな方で、役柄上の性格とで悩んだという話がありました。特に一世を風靡した「スーダラ節」の詩についてたいへん悩まれたと『夢を食い続けた男―おやじ徹誠一代記』(朝日文庫)にあります。
しかし、浄土真宗の僧侶であった父から「わかっちゃいるけどやめられない」というのは親鸞聖人の仏法に通ずる意味があると読み取られ、歌うことをすすめられたおかげでレコーディングされたというエピソードが記されてあります。
これは開き直りの歌ではないでしょう。たんなる開き直りであるならばこれだけ多くの人の心には響かないでしょう。ああ、ほんとうにそうだなあ、と痛みを持って頷いたからこそヒットしたのだと思います。
間違いをおこしたと気づければ、立ち返って軌道修正できるのです。間違ったことを間違ったと気づくことができなければどうなるか、宇宙船が地球に戻る軌道を外れれば戻ることはできませんし、軌道がわずかでもずれれば大気圏への突入角度が狭くなり、大気との摩擦で異常高温になり燃え尽きてしまうでしょう。
真宗の門徒はそのたびごとに、教えにふれ、ああ、まちがっていたな、また知らしていただいたなあと立ち返り、味あわさせていただいてきたのです。年の初めにあらためて私のあり方を見つめることが「修正会」の意味なのです。
近頃は、「ご先祖」にという意味合いが強いのでしょうか、新年のお参りにこられてもお墓参りだけで済ませてしまうご門徒様が増えてきたようで、とても残念です。ご先祖も私に先立って、阿弥陀の本願にふれて確かに阿弥陀の浄土に還り、そして縁あるものを度するためにこの「私」に「阿弥陀の御名(みな)を念ぜよ」とはたらきかけてくださる諸仏のお一人であるのです。
ご先祖は決して「この私を拝め」とは言わないはずです。ましてそのような者に祟りを及ぼすなど、あるわけがありません。そんなことより、「私を縁として大いなる世界に眼を開け」と呼びかけ続けてくださっているのではありませんか。
お寺参りは単にお墓参りではありません。仏様にお参りされるよう、ご先祖がおはたらきかけをしてくださっているからお墓が大事なのです。阿弥陀様にお参りをせず、お墓だけというのは、その諸仏となられたご先祖の願いを無にするものといえましょう。
年の初めに、西光寺のご本堂でお勤めをいたし私の軌道がズレていないか「修正」いたしましょう。かんたんなおせちを用意してお待ちしています。
西光寺修正会
元旦 午前十一時より